米を洗う?それとも研ぐ?

変わりゆく言葉、変わらぬ営み――「米を研ぐ」が消える日

先日、中学三年生の英語の授業で長文読解を扱っていたときのことだ。本文中に “wash rice” という表現が登場し、ある生徒がそれを「米を洗う」と素直に和訳した。もちろん、訳としては決して間違っていないし、文脈もしっかりと通っている。しかし、私の心の中には、ほんのわずかな違和感がさざ波のように広がった。私の世代であれば、それは無意識のうちに「米を研ぐ」と訳していたはずだからだ。

思わず「『米を研ぐ』とは言わないかな?」と問いかけてみると、生徒たちの口からは予想外の言葉が返ってきた。「研ぐ、なんて言わない」「洗う、しか使わないし、そもそも『研ぐ』という表現を知らない」と言うのだ。

かつて「米を研ぐ」という言葉には、確かな実感を伴う意味があった。昔は今ほど精米技術が発達しておらず、米粒の表面には糠(ぬか)が多く残っていた。そのため、手のひらを使ってしっかりとこすり合わせるように「研ぐ」ことをしなければ、炊き上がったご飯が美味しくならなかったのだ。昔は4~5回は水を替えて力強く研いでいたものだが、精米技術が飛躍的に高まった現代では、2~3回軽くかき混ぜてすすぐ程度で十分になっている。むしろ、強く研ぎすぎると米が割れて風味を損なうとすら言われる。「洗う」という言葉は、現代の米の扱い方において、極めて理にかなった表現なのだ。

さらに思いを巡らせてみると、「研ぐ」という言葉が日常から姿を消しつつある理由は、米だけではないことにも気づく。「包丁を研ぐ」という行為もそうだ。昔はどこの家庭でも砥石(といし)を使って包丁を手入れする風景があったが、今ではシャープナーで数回なぞるだけか、あるいは買い替えてしまう家庭も少なくないだろう。生活の中で「研ぐ」という身体的感覚を伴う動作そのものが、急激に失われているのである。

言葉は、私たちの生活様式や技術の発展を映し出す鏡である。精米技術の進化が「研ぐ」を「洗う」に変え、便利な道具の普及が「研ぐ」という言葉を使う機会を奪っていく。この状況を目の当たりにし、言葉の数や表現はこうして時代とともに静かに、しかし確実に形を変えていくのだと改めて気づかされた。

「言葉の乱れ」と嘆くのは簡単だが、これは間違いなく「言葉の進化」であり、文化の変容である。これから先、AIやさらなる技術革新が私たちの生活を覆い尽くしたとき、今当たり前に使っているどのような言葉が消え、どのような新しい表現が生まれるのだろうか。寂しさよりも、そんな未来の辞書に対する興味が尽きない。

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